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来ちゃうバージョン

Liverary内に書かせてもらってるコラム、「エヴリアポイントメントキャンセル」に、Godotが来ちゃうバージョンの「waiting for Godot」書きました。武部くん早くアップお願いします!
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by puddingreseach | 2015-09-22 15:04

ジョンのサンワンマン7/4

ジョンのサン(名古屋で12年ぶりの)ワンマン

7/4 19:00
大須モノコト
予約2350円(ドリンク+サモサ付き)

昔の曲多め、30曲くらいやります。
当日までは家で小さい音でしか練習しません。
シンセ調子悪くて音出ません。
キッズドラム持ち込み、ギターはミニアンプから出す、必勝の条件が揃ったと思います。
あとやっぱり4人とも天才で最高のバンドでした。
ワンマンは結成1年半の時に八事ポップコーンで10人の前でやった八事ロックディナーショー、2011年に東京都文京区の古書ほうろうで満員の前でやったNo,sir.発売記念ワンマン、に続いて3回目です。
「Can I have a taste of your ice cream? 」
「No,mind your own business.」
みたいな一つの正義を飛び越えて、
つまり、自分はこれを見に来て良かったという行儀の良い事だけでは収まらず、ダイアモンドホールに行った人馬鹿じゃんという所まで何とか持っていこうと思っています。

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by puddingreseach | 2015-06-30 16:52

19/100 最後の縮毛 その2

2004年11月私がいない間もジョンのサンはライブを続けていたし、私がスコットランドを出る直前に神谷と吉川さんがアイルランド旅行ついでに来てくれて、エディンバラでライブをやったりしたから、日本に戻ってからもまたすんなりバンドに入らせてもらう事ができた。それに、神谷と吉川さんと欣司はその年、3人ですごくがんばって、信じられない事にお客さんがちょっと増えていたり、ライブに誘ってくれる人脈が広がったりしていた。そしてこの頃のある日、クラブBLでライブしたあと、かおり君に話しかけられた。横でタピ君(結局今日まで一回もしゃべった事ない)が笑ってた。自己紹介されて驚いて、メールのお礼をした。その後にかおり君は私にこう言った。「やっと見れましたけど、アティテュードっつーか、感じますねやっぱ。」アティテュードは、当時の青臭い神谷と私が出さないように努力していたものの一つだった。何かバンドとかやってるんですか?と聞くとかおり君は答えた。「いやー、やってるけど、僕たちなんかほんとにジャンクなサウンドなんで。」本当に一切誇張せずに書いてて、こういうルー大柴みたいな話し方を平気でする人だった。かおり君はまだベジタリアンになる前で、今よりも太っていて、当時からアースカラーの服しか着ておらず、動じず、どぶにいるカエルのようだった。何て言うバンドですか?と聞くと、「あー、ジ・アクト・ウィー・アクトって言うんですけど」とはっきりした発音で答えて、私はまた驚いた。いわゆる青春の1ページの様な瞬間だった。話を戻すと、そもそも佐藤くんが私のアニマル・コレクティヴの説明を聞いてthe act we actの話をしてきたのは、「ギターの人(アヴィー・テアーじゃない方、パンダ・ベアー?)がギターを首からかけているだけで弾かずにずっと変な踊りを踊ってる」という部分に反応して、「the act we actというバンドのギターの人がギターを弾かずに、タンバリンを叩いたりシンバルを叩いたりしてるだけで、その人が見てて、何か違うっていうか誰からも歓迎されてないっていうか、面白い」っていう事だった。そして、私が初めてthe act we actを見に行った時、かおり君はギターを首からかけていて、一曲目がカウントされると同時にそのギターをくるんっ!と後ろに回してシンバルを叩き始め、ボーカルの五味くんにすぐ跳び蹴りされて吹っ飛んでいった。やっぱりこの人がその係だったか!と私は思った。その後、かおり君は私達に色んなバンドを引き合わせてくれたり、何故か古賀さんとかおり君が一緒に住むようになりその部屋で作曲や練習をさせてもらいその度にかおり君だけベランダに出て七輪で何かを焼いてくれたり、たまにバンドに入ってくれたりする関係になった。かおり君はわりと早めにthe act we actを脱退してしまった。企画をいくつかしていたがどれも進行が酷く、特に2006年の3月に行われたTRISTEZAのツアーの名古屋ライブは最悪だったようで、私は行ってないけど、会場の得三、前座の二組、その他いろんな方面から後から聞いたところによると、適当地獄で出演者同士も仲が悪くなって終わったらしい。 ライブは一秒も見ず運転と打ち上げに専念するローディーの名手として名を馳せた事もあったけど、ついに今はどこにいるかわからなくなってしまった。 でも現在もかおりインスパイアの人達は少なくなく、吉田松陰みたいな感じになってる。たまにそういう人から私に「今かおりさんといるんですけど来ませんか?論破したがってます。」という連絡が来る。だいたいその門下生みたいな人達は死んだ目をしていて、恐いから行けない事が多い。
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by puddingreseach | 2014-11-09 17:36

18/100 最後の縮毛 その1

2004年1月スコットランドで学校のプログラムが始まる3週間前に私はロンドンに着き、地下鉄に乗り、ウォータールーという駅(ミーハー心のみで選んだ)で降りてベッド&ブレックファストで一泊しその足でユーロスターに乗ってフランスのポワチエへ行った。ポワチエという都市は小さく、有名でもなく、中根さんという人がそこで勉強すると聞いた時には、黒人俳優のシドニー・ポワチエが地名を二つくっつけた変な名前であることを知った。アラン・レネの『24時間の情事』で、二つの離れた場所の隔たりについて連呼される、「ヒロシマ・・・ヌヴェール・・・!!」というのがそのまま名前になった様なものだった。くどいけど、船橋さんという人に娘が生まれて松江という名前をつけるようなものだった。ポワチエで中根さんと安くて美味しいものを食べて過ごし、スコットランドへ行く2日前に中根さんの親友で私も仲の良かったヨウコさんという人に会いにパリへ行った。パリを観光した後、ヨウコさんのアパルトマンでバンドの話になった。ジョンのサンは初ライブの芸音センターを除けばまだクラブBLでしかライブをしておらず、誰も知らないバンドだったのに、ヨウコさんは唯一の音源『ジョンのサンのミュージックステーション』をある別の友人に聴かせてくれていて、その人がその中に入っているラモーンズのdo you wanna dance?とルー・リードのsatelite of loveのカバー演奏を(ヨウコさんの期待通りに)気に入ってくれて、「連絡する」と言っているとの事を教えてくれた。本当にすぐ連絡をくれたその人は、私と同い年で、シカゴに行ってジョーン・オブ・アークと仲良しになってアルバムにもクレジットされているという物凄いステータス(現在となっては、その人の波乱万丈な人生の一つのフリとしてあるのみの話だけど)を持つ、鈴木香織君だった。メールにはこうあった。「ヨウちゃんから聴かせてもらいました。すごい良くて、普段どういうスタンスでやってるのかとか気になるんで、また日本に帰ってきたら連絡します!」このメールを読んで、自分のあまのじゃくを反省する気持ちと、メールって難しいものだなという気持ちと、なんかこの人いやな奴だろうなという気持ちが、3つ同時に私に沸き起こった。特にスタンスという言葉が気になった。音楽に関しては少しでも業界っぽい言葉が口から出てきたらその人の事を軽蔑する事にしてた。かおり君という人は前にも書いたけど、アーカイヴという言葉を、平等院ではなく、鳳凰堂のアクセントでわざわざ発音する人だった。いま思うと、メールだから発音とか無いけど、この時のスタンスは、トロントではなく、ベランダのアクセントで使っていたのだろう。とにかくそのようなネガティブな印象のまま、「ありがとうございます!!」というメールを返信して、私がヨーロッパにいた9ヶ月のあいだは、かおり君という人がいるという事をわかっているだけで特に何の事は無かった。2004年11月私が警察犬に必要以上にクンクンされながら帰国して、色んな友達と順番に再会していた時に、自主映画を撮っていた佐藤くんと飲みに行った。土産話の一つとして、私がグラスゴーにムームのライブを見に行った時に前座でやってるのを見て大好きになってその後のエディンバラでのライブも見に行ったアニマル・コレクティヴについて、どんなバンドかを説明した時に、佐藤くんは「よさそう!」と言ってくれて、「実はちょっとそういう感じかも知れないんだけど、草太くんに見て欲しいバンドが豊田にいて、スタジオライブとかやってるんだけど」とthe act we actというハードコアのバンドの事を教えてくれた。
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by puddingreseach | 2014-11-04 12:11

9/100 セイハロー

2004年正月
毎年正月は大須名物屋と昭和ストアーのバイトの給料が良くなり、しかも先輩スタッフの人たちが休みたがるため、その年は連日吉川さんと私とでお年玉を持った若者達に囲まれながら服を売りまくった。
1月3日には吉川さんが昭和ストアーでもみくちゃになり本当に気絶してしまった。
私はある日の帰りにへとへとになりながら大須観音で初詣をした。手を合わせスリリングな1年になる事を祈った。私はその年学校を休んでスコットランドのエディンバラへ行くことが決まっており、バンドにも参加できなくなる事がわかっていたので、慌てて実家の近所の東山クラブBLに何度かライブを見に行き、カウンターのミスズさんという人と喋れるようになったところで「ライブをさせて下さい」と打診した。
当時私がBLで見たバンドは、脳震盪やG-spot hunter、アシュラッド、うたかた(松石ゲルさんとひじりさわさんのデュオ)、流星、それ以外には数え切れないほどのガレージパンクみたいなうるさいバンドもいて賑やかだったが、少し歳上の人から言わせるとBLが一番すごかったのは私がライブを見に行ってた時期の少し前で、今のKDハポンに出るようなバンドの中でも特にかちっとしたライブらしいライブをしたがらないバンドがその時はちょうど良い場所がBL以外になく、BLで定期的にライブをしながらたまにデイトリップとかハックフィンでやるという風だったらしい。では何がちょうど良かったかというと、ここがクラブBLが少しだけ伝説になっているポイントでもあるのだけど、BLは毎日、入場料が無くて、長いときは明け4時くらいまでライブをやっていたのだった。飲み代だけだったので、バンドは当然ノルマも無く、ギャラも無かった。お客さんも好き放題やっていた。ステージとフロアが良くも悪くもお互いに全く責任の無い関係だった。だからちょうど良かったという話だけど、当然そんなやり方がバンドにとって良い筈もなく私が行くようになった時期に良い(シリアスな)バンドがBLでやらなくなってきたのも、同じ理由だった。もう一つの理由はナオキさんという店長が逃げ出してしまい、それをオーナーとして引き継いだBONEIDOLというバンドのタクヤという人がマッチョで鼻にピアスが開いていてダサかった事と、店長を務めたユーキという人がとんでもない若ハゲで自分自身もソロで弾き語りをやっているんだけど代表曲が『Hello』でサビが「セーイハロー」(長調、ソーレドー)で、私達ほか出演するバンドもどうやって接していいか最後までわからなかった事だった。

2月10日、私達は今池での「ジョンのサンの授業参観」以来約半年ぶりに人前で演奏した。場所は東山クラブBL。窓から東山スカイタワーが見える狭いライブハウスだった。1階はカラオケ付きのカウンターの飲み屋、2階はK2という激安カラオケがあり中学校の時によく行っていたがその時はもう無かった。3階は韓国マッサージ、BLは5階か6階だったと思う。客としての私の振る舞いが良かったのか、テープの持ち込みなども無く、初めてにしてはまともにブッキングしてもらえた。
対バンは学生実験室(現在、昼というバンドをやってる小野さんと、リョーケストラやサックスルインズなどの小埜さんのデュオ、両方おのさんだったので夫婦か兄妹だと思ってた)、とらべるえあー、Bookhopeなどだった。

そしてこの頃、どこかであったettのライブで、今度は吉川さんの方が、前で見ていて突然ふらついた一人の女の子をキャッチした。吉川さんがその人を介抱しようとしていると横から割り込んできた目のキョロっとして顎が少し張り出した男の子がいて、その人は島田くんという名前で、気絶した子は畠山さんという名前である事がわかった。
その二人はyoruというバンドをやっていて、カノーバンのボランティアスタッフで私と接点があった日高くんというメガネの無口な人もyoruのメンバーだった。ジョンのサンとyoruはもう良い先輩達のいない落ち目のBLでその年、両手で足りないほどたくさんライブをやった。yoruはヤジを受けないバンドだったが私達はヤジと嘲笑を受けしかももれなくくよくよするバンドだった。
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by puddingreseach | 2013-11-25 14:43

8/100 毎日蟹たち働いてる

2003年秋
canolfanにジュリー・ドワロンを見に行く。

着いた時には一組目が終わってて、teasiの亀山さんがエントランス付近(私にとっての恐怖サロンスペース)で「ゴンゾさん良かったわー・・・」と言ってた。
村上ゴンゾさんはこの日、弾き語りをしたらしい。

二組目teasi、この頃はまだベースが森下姉妹のお姉さんで、この人は元ヨードで、しかも元流星(神谷と私が追っかけをしてた)だった。もう少ししてから森下さんはペルーへ行ってしまった。
この頃のteasiは有名なセカンド『壁新聞』もファーストも出す前だったけど既に名古屋のキャプテンだった。
ボニープリンスビリーが得三でやった時も前座はteasiで、やるたびに壮絶なライブだったから、音楽の戦法としてヨゴレだった私達にとって大きなコンプレックスだった。
「しきつめた花のいみはかれ、いみはかれ」という曲はこの日もやってたけど、見ていると、見事だなすごい良いなという気持ちと、こんちきしょうという気持ちが、生意気にも既に両方あった。

三組目asuna、オルガンのドローン、この頃は本当に最高だった。今も、いつも最高だけど、この頃のただオルガンをプーって押さえて持続させて少しずつブラすやり方は、青春というか、今より攻撃的だった。この日はお客さんが超満員だったけど、teasiでじっとりしてたのが、春風のようにファッと吹き飛んだ(ドローンなのに!)。asunaさんがこの日弾いてたオルガンはジョン(犬)の物(ジョンさんは名古屋に一台、置きオルガンをしてた)だったことを後から聞いた。

四組目ジュリー・ドワロンとウドゥン・スターズ、楽しみだったし良かったけど、あまり関係ない気がするので省略。

12月
Canolfanにテニスコーツを見に行った。

一組目スティーブジャクソン、モモジさんとヒジリさんの二人で、モモジさんがベース弾きながらラップ、ヒジリさんがヒューマンビートボックスでディレイだけ使ってた。
モモジさんは、みたはるなというバンドでセーラー服を着て叫んでるのは見たことあったけど、地声のボーカルは初めて聴いた。
すごいかっこよかったけど、とにかく当時このへんの人達には畏怖しかなかった。

二組目ぺぺ&プリマ、なんで見に行ったライブの事ばかりつらつら書いてるかというと、ひたすらインプットして悶々としてた(でも最高に楽しかった)時期から、突如として毎週のようにライブをやる様になるまでのちょうど境目がこの二回のイベント(出演者はすべて初見だった)で、特にこの日のぺぺ&プリマが、ジョンのサンを一生懸命やろうと思ったきっかけになったからだった。
この日のぺぺ&プリマは島田さんと桜木さんの二人組(ちなみに後に結婚する)で、島田さんがギターボーカル、桜木さんはドラムだった。
今でも鮮やかに3Dで覚えてるあの日の『蟹工房』という曲、電子メトロノームをピッピッピッピッと鳴らしながら島田さんの弾き語りのリズムがずれていって、ドラムの桜木さんがピッピッに合わせるのか島田さんに合わせるのかわからなくて叩きながらすごい怒ってるという仕組みの演奏で、今考えると単純だけど、パッと視界がひらけた気がした。やるしかない、やってやる、こんな気持ちを思わせられるようなバンドを僕もやりたい、見ててバンドをやめたくなる様なバンドじゃなくて、見ててバンドをやりたくなる様なバンドをやりたい、と思った。
出番を終えて客席に戻ってきた島田さんと桜木さんはまだ喧嘩をしてた。桜木さんは「ちょっとどうなっとんの、恥かかせんで」と言ってた。
帰ってぺぺ&プリマを検索してホームページを見てたら、15曲くらい入ったフルレングスアルバムのMDに100円玉をはりつけてライブ会場で配っていたという音源が紹介されていて、そのMDアルバムのタイトルが『世界中の豚から真珠を奪い取れ』だった。本当に勇気をもらえた。
このバンドに恩返しするために今までやってきたといってもいい。

三組目テニスコーツ、省略。
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by puddingreseach | 2013-07-21 00:29

36/100 カラフルタウンにて

2007年4月21日

我友万博2007
高円寺ペンギンハウス

1マイパルフットフット+三富栄治
2パイカル
3ジョンのサン
4公園

何度目かの東京で、初めて円盤ではない場所でライブ。
ちょっと早めに着いて挨拶をして(円盤で対バンしたマイパルフットフットに誘ってもらえて最高に嬉しかった)、運転で疲れている神谷と吉川を残して1時間だけ単独行動をしようということでどこに行こうか思案したら円盤しか考えられず、せっかくちょっとだけ円盤の外に出れた日なのに律儀に円盤へ行った。
田口さんに挨拶をして、今日なんとライブなんですという報告をしてから棚を見てたら、隣で同じく物色してた若い男の2人組に
「ジョンのサンの方ですよね、今日楽しみにしてます!」
と声をかけられた。『摩天楼はバラ色に』のマイケルJフォックスの様に、私は「東京は俺のものだ」と思った。
ちなみにその時、円盤はリハ中で、私達の会話のBGMはまだ出始めの松倉如子の生歌だった。
二人の名前を聞くと、照内君と酒井君という人たちで、後にわかったことだけど、トラウマガールズというバンドをやっていた。後にわかったことだけど、酷い歌もののCDRを作ってた。「キャンタマ」という歌詞があったのは覚えてる。サケロックが無駄って言ったりスチャダラパーが暇って言ったりするのはやっぱりちゃんちゃらおかしいなと思えるほど、本当に(悪い意味で)何が楽しくてこんなバンドをやってるのかわからない、聴いていてそう思えてくるCDRだった。
それからしばらくして照内君が女に走り、酒井君がソロでやっててその歌がめちゃ良いと噂になってきた頃、初めて会ったその我友万博の日からちょうど3年後の2010年7月に、円盤で、4組とも純粋に田口さんのブッキングで、ju sei、mark、ジョンのサン、酒井己詳というライブがあった。
そしてそのちょうど3年後の2013年7月に、つぶろっくでトラウマガールズがライブをする。
酒井君のバックバンドで私を除くジョンのサンのメンバーが演奏するらしい。

ペンギンハウスに戻って、神谷くんと吉川さんに、凄いことがあった、話しかけられたと報告して二人が驚いてくれた。
本番、東京メンバーになってたasunaの嵐さんはこの日おらず、神谷、立石、吉川、という無敵の三人で演奏した。
この時期によく一曲目にやっていた「革命」という歌のアウトロで、本来「パッパラララパッパラララ」と歌うところを「マイパル万博、マイパル万博、マイカル桑名、ダイアモンドシティ、カラフルタウン、アピタ稲沢、アピタ阿久比、アピタ港、」と果てしなく歌って、アピタ阿久比あたりでお客さんがほぼ全員吹き出してくれた。でも高円寺でアピタ阿久比に言及する面白さは東京の人には50%もわからないくせに笑いやがって、という風に、この頃の私達には誰にも止められない剛さがあった。

公園のライブがかっこよかった事も、別々に東名を走ってきたものとして、本当に誇らしかった。
トリとかお客さんが多いとかそういうことで人一倍機嫌を良くする西村さんはこのライブ中ずっと躁状態で、突然「俺の歯は汚れてる!」と言ったり、突然一人でsurfin USAを弾き語り(めちゃくちゃかっこよかった)したりと、静かに深夜のガストで二人ドリンクバーのコーヒーを飲んだ仲の私にとっては余計に泣けるスターダムを見せてくれた。

熊谷くんが一人で見に来てくれていたから駅まで送った。道中しつこく熊谷くんに「公園かっこよかったよね」と確認して、当時ティーネイジャーなのに私よりはるかに大人だった熊谷くんは「ええ」「はい」「ええ」と相づちを打ってくれた。
「わたなべさんは元気ですか?」とも言ってた。
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by puddingreseach | 2013-06-27 23:39

7/100 ファーストアルバム

2003年夏

学校の体育で『ゴルフ』を受講していた私は、その同じコマをとっていた別の学科所属の斎藤みどりさんというおばちゃん(私が通っていた大学は50代60代の生徒も多かった)と交流を持った。
みどりさんは一週目の点呼で名前を呼ばれず、履修登録漏れであることにも納得がいかなかったのか、学生証の写真を見せながら先生に猛烈に抗議した。

「これ!私です!斎藤みどりです!ほら!今日たまたま同じ服着てます!ほらUSAって!私です!何かの間違いです!斎藤で履修登録を提出しました!」

みどりさんは胸にUSAと大きく書いてあるトレーナーを着ていた。
私はみどりさんに話しかけて、友達になった。
みどりさん、そうたさん、という仲になり、よく学食で一緒にご飯を食べた。

そして、一年のフランス学科夜間コースに入学してきた油井くんという青年を主演、私と同じ学科だった菊池さんをその相手役、映画サークルOBでドイツ語の研究者だった佐野さんを主人公の勤める製紙会社の社長役、そして学校で一番フォトジェニックであったみどりさんをその妻役にそれぞれお願いし、私はひと夏をかけて、サークルの機材を借りて40分の映画を撮った。
『カレンダーをぱらり7月、ぱらり8月、爆弾ズドン』という名前の映画だった。
みどりさんに学食でその出演依頼をしたとき、みどりさんは
「いやらしいのじゃないでしょうね」
と言ったので、私は
「いやらしいのじゃないけど、綺麗に撮るよ!」
と言って、それならと、OKしてもらった。

製紙会社に営業として勤める主人公が徴兵されることになり、それを惜しんで会社の社長が食事をおごってくれた時に、もともとは気になっている女の子と行こうと思っていた野球のチケットを社長夫婦にプレゼントし、主人公は戦争に行き、社長夫婦は名古屋ドームへ野球を見に行くという映画で、終盤の定食屋での食事シーン(大須の安兵衛に飛び込みでお願いして、営業中なのに厨房にカメラを置かせてもらい登場人物4人が食事しているテーブルを撮った。テレビからは相撲中継が流れていた。)と、ラストの名古屋ドームでの野球観戦シーンはそれぞれ5分以上のワンカット長回しで、後に自分が入ることになるゼミの先生と、当時『僕の新婚旅行』のビデオが仲間内でまわって話題だった内村茂太監督にほめてもらえた。

その映画の音楽を担当したのがジョンのサンで、主にヴァセリンズのjesus doesn't want me for a sunbeamとパステルズのmandarinとラモーンズバージョンのdo you wanna dance?をインストにしたものや、劇中にみどりさんと油井くんが西郷輝彦の『星のフラメンコ』をデュエットするシーンでバックで演奏したりした。
そのサントラ+アルファで構成したのがジョンのサンのファーストアルバム『ジョンのサンのミュージックステーション』だった。
ジャケットに髪を振り乱してタクトを振る小澤征爾を起用したこのアルバムはCDRで、学祭の上映会限定で販売した。

ジョンのサンのミュージックステーション
1 do you wanna dance?
2 my bloody France Gal
3 jesus doesn't want me for a sunbeam
4 son of a gun
5 星のフラメンコ
6 大好きなシャツ
7 mandarin
8 after hours

1ラモーンズカバーインスト
2神谷と吉川の宅録でマイブラの曲とフランスギャルの曲のカバー
3ヴァセリンズカバーインスト
4ヴァセリンズカバーインスト
5西郷輝彦カバーフィーチャリング油井智明&斎藤みどり
6神谷と吉川の宅録で渡辺満里奈カバー
7パステルズカバーインスト
8ヴェルヴェッツカバー(一番のボーカル吉川タッカー英理子、二番のボーカル吉川のおばあちゃん、ギター吉川父)
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by puddingreseach | 2013-05-25 00:13

6/100 デビュー

2003年夏
中京大学の学生達が主催したコンサートが今池の芸音(キノシタホールの地下)で行われ、ジョンのサンは欣司のコネで出させてもらった。
一年間練習してとうとう人前で演奏することになったので、私達は吉川家近くのガストで曲順を考えて、最初で最後になるかも知れないライブをどうやればいいか話し合った。
ちなみに私達はこのころから何かある度にこのガスト香久山店で話し合いをするようになり、紙ナプキンに色々なアイデアを書いて持ち帰った。スタジオに何回入っても進歩しなかったのにガストに行くと一気に動き出したりした。
また、ある若い男性店員の接客があまりに良かったため、テーブルを離れるとき紙ナプキンに応援メッセージを書き置きして、店の外からみんなでリアクションをこっそり見たのもこの頃だった。手紙に気付き皿を片付ける手が止まった時はワクワクした。そんな行いをしてる時も私達はあくまで下衆だったので、追伸で店長の悪口を書いて、ですよね?という風に同意を求めた。こうすることでこの手紙がバックヤードでこの店員さんの成功事例として公式に共有されることが回避され、手紙を宛先にだけ届けることができた。

この時の話し合いで決まったことは主に2つだった。
ノルマなどが無いし演奏にも自信が無いから、貢献するために友達をなるべく多く呼ぶこと。
ライブというものを履き違えてる人達みたいにするために4人ともが親を呼ぶこと。
私達は一出演者に過ぎなかったけど、このイベントを「ジョンのサンの授業参観」と名付け、舞台上手にそのように毛筆で縦書きしためくりを置いた。

私達の友人や家族で会場がいい感じに埋まった。
私の祖母は大きなつばつきの帽子に花柄のワンピース、ベージュのズックで登場した。
メロコアのバンドが主催だと聞いたけどその人達はトリで、一組めと二組めは皆スーツでビジュアル系のバンドだった。
私達は演奏後、オリジナルのポケットティッシュを配り、自作のTシャツを販売した。
曲はコピーばかりだった。
私の父は、「君達が一番クレバーだったね」と言った。
その日からまた半年間queに通って、誰にも見てもらわずに4人だけで過ごした。
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by puddingreseach | 2013-04-28 17:12

4/100 もう一人の縮毛

2003年1月

バイトしてた大須の古着屋(名物屋と向かいの昭和ストアー、この日は名物屋)の閉店時間、掃除をすませてシャッターを閉める。店でネコを数匹飼っているから、ネコが挟まってふぎゃらないように、ゆっくりガラガラ下りてくるシャッターを最後まで近くで見とくのがルールだった。
目の高さやや下くらいまでシャッターが下りた時に、自転車をひいてカメラを首から下げた女の子がこっちを見てた。この人はまだ店を見たいのかと思った私はシャッターを止めて、どうしました?と聞いた。
私はその人に、映画が好きかどうかを聞かれて、半閉まりの店からいったん外に出るよう頼まれ、焼きうどんを食べる真似をしてくれと頼まれ、カメラをまわされ、焼きうどんをおいしそうに食べる真似をして、こうですか?こうですか?と聞いた。
その人は、ハハッ!いいですねー!とすごい喜んでくれて、いま映画の学校に行っててそこの授業で映画を撮るための場所と人を探していることを教えてくれて、古賀と申します、と自己紹介した。私は連絡先を教えて、古賀さんはその夜のうちにスタッフの浅田君(のちのセンチュリーシネマ店長)、山本さんに相談したあと、私に「あなたに決まりました」と連絡をくれた。

その冬のあいだに映画「留守番電話の恋」は16mmフィルムで撮影された。古賀さんのマイペースな監督っぷりと急に妥協のない演出、毎朝吐血してから現場にくる撮影の浅田君のがんばりにすっかり感銘をうけた私は、演技はできないけど、とにかく気を使わせないように、なんでも協力するよという顔をしたり、構図がなかなか決まらない時などは短時間でもぐっすり寝て待って、ありがとう、おかげで寝れたよという顔をするなどした。
私は黒いトックリを着て、髪型は黒いマッシュルームだった(よくわからないけど男友達からはブチャラティーといわれてた)のだけど、その映画の役は喋る黒電話だった。
映画が完成に近づくころに、古賀さんが題字を良いフォントにしたいけど誰かいないかと相談してきたので、最高の人がいるよと吉川さんを紹介した。
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by puddingreseach | 2013-04-20 22:09

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